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国際山岳ガイド 佐々木大輔さん

「山を見つめ、展望するのはこの社会
-山岳ガイドのやりがい」

佐々木大輔さん

イワタニ・プリムスと接点のある人々の「声」をお届けする『Real Voice』。今回は国際山岳ガイドで、「デナリ南西壁滑降」などの偉業を成し遂げた日本を代表するスキーヤーでもある佐々木大輔さんにお話を伺いました。インタビュアーに山岳ライターの柏澄子さんを迎え、ご自身のアウトドアとの関わり、日本における登山のガイド業とその展望についてじっくりとお聞きすることができました。


高校卒業後、山岳ガイドになるべく、山岳地域を専門とした旅行会社に勤めた。先輩ガイドたちの導きもあり、18歳にして山岳ガイドの仕事を始める。42歳のいままで、それを生業としてきた。世界を舞台にしたビッグマウンテンスキーヤーであり、『なまら癖―X』というユニークな名前の集団のかしらを務めては、仲間たちと地球のあちこちで山を登り、スキーを走らせ、カヌーを漕いで遊ぶという素顔もある。
佐々木大輔は、遊び上手でありエンターテイナー、リーダー肌、そして何より自然が好き、山が好き。いったいどんなガイディングをするのか、それは想像しただけで楽しそう。だから大勢の人が、「佐々木大輔さんにガイドをしてもらいたい」「佐々木大輔さんのツアーで滑りたい」という。その期待や信頼は、ガイド仲間にもある。「大輔のためだったら、俺も協力する」「大輔がリーダーならば、チームに加わりたい」と言うセリフを、あちこちから何度聞いたことか。
佐々木は、公益社団法人日本山岳ガイド協会の理事を務めて4年になる。年5回の会議に、札幌からまさに飛んでくる。スキーガイドの資格整備に身を挺し、現在もまた新たな課題に取り組んでいる。自分自身のガイディングだけでなく、日本の山岳ガイドの社会を、ひいては登山を取り巻く社会を、よりよいものにしたいという思いには、ただただ頭が下がる。
今回は彼の原点、ガイドの仕事、そして日本の山岳ガイドの現状とこれからについて聞いた。


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大輔さんの原点はどこにあるのでしょうか。

佐々木 札幌の手稲山の麓で生まれました。山が近いところ。それが僕の根っこにあると思います。小学4年生で、盤渓(ばんけい)に引っ越します。こちらも札幌の郊外であり、いまもここに住んでいます。盤渓に来ると、さらに自然が近くなり、毎日のように山の中に入り遊んでいました。山ぶどうやコクワ(さるなし)の実を採ったり、駆けずり回ったり。3歳のときには、ロープトゥのリフト(ワイヤーに繋げたバーを掴んでのぼるタイプのリフト)を使ってスキー場を滑っていました。手稲山も盤渓もスキー場がすぐ近くでしたが、盤渓はスキー場を抜けて森のなかを、自宅まで滑り降りてこられる絶好の場所です。盤渓の家は、父が建てました。父は、できることはなんでも自分でやる人です。それは僕に、大きな影響を与えてくれたと思います。

父が盤渓に建てた家。小学4年生から高校生まで、この家で育った。取り壊す前に、子ども3人と記念撮影
小さな頃から冬になると毎日のようにスキーをしていた。写真は4歳のとき。手稲のスキー場にて

中学に入ると、麦谷水郷くんという同級生と、よく山に登っていました。ある日、近くの採石場に行き、クライミングをしていたのですが、冷蔵庫大の岩が剥がれ落ちてきて、麦谷君の腰にあたり、僕のすねにもあたりました。幸いにおおごとにはならなかったのですが、血だらけになり、木を拾って杖にしながら学校まで帰ったことを覚えています。ふたりともサッカー部でしたが、顧問の先生に「今日は帰れ」と言われ、帰宅。次の日は痛みをこらえて練習に行きました。
本格的にスキーを始めたのは高校でスキー部に入ってから。ポールを立ててレースをしたり、基礎スキーをしたりしていました。ともかくどんなところでも早く滑れるようになろうと、荒れた斜面こそ、めいっぱいスピードを出して滑り降りていました。
また、以前にも増して登山にものめり込んでいきます。高校までは、夏は20分ぐらいかけて自転車で通っていました。しかし峠越えのこの道は、冬になると閉鎖されます。徒歩60分、峠付近はフルラッセルになる道のりでした。ここを、ザックに20㎏の砂を詰めて、歩いて通っていました。ボッカ(重い荷物を背負って山の上に荷揚げを行うこと)ですね。ともかく体を鍛えて、山に入りたかったのだと思います。
前述の麦谷くんとは、卒業後何年もたってから、一緒にヨセミテに行きました。色んな意味で思い出深いクライミングツアーでしたね。僕にとって山のパートナーと呼べるのは、麦谷くんと、その後に出会う新井場隆雄くんです。
卒業後は山岳ガイドが経営している旅行会社に就職し、山岳ガイドの仕事を始めました。山にいることが居心地よくて、もっと山を登りたい、自然のなかに身を置きたいと思ったとき、山岳ガイドという職業を選ぶのはシンプルな思考の末の選択だったと思います。僕自身にフィットした職業だと思ったのです。

中学1年の夏休み。その後、山岳ガイドの師と仰ぐようになる宮下岳夫氏に連れられて北海道のクワンナイ川を遡行。沢登りも本格的な登山も2回目だった
盤渓に引っ越してきて、家を建て始めたとき、両親と弟と。足元にあるのが、家の土台となるところ

山岳ガイドという仕事の喜びややりがい、見据えているものは?

佐々木 僕がこの仕事にやりがいを持っているのは、僕たちがガイドをすることによって、自然に親しむ人がひとりでも増えれば、それはひいては社会全体をよくしていくと信じているからです。
僕は自然のなかに身を置くことで、人間が地球という星で自然に生かされていることを実感してきました。人間の力なんて、ちっぽけですよね。自然を目の当たりにし、自然というものを知ります。
また、登山中は自然の様々な環境、条件を受け入れ、自分たちをそれに合わせなければなりません。うまくいくときもあれば、厳しい環境に打ちのめされる時もあります。どうしようもないときもありますが、仲間と力を合わせてそれを乗り越える喜びもあります。人間が地球という環境のなかで生きていくのに必要なことを、気づかされます。これらは山に登ってこそ、知りえたことです。
だから僕たちガイドが、お客様を山にいざない、山の魅力を伝えることができたら、きっと多くの人たちが、いまよりももっと地球について考えるようになり、世の中をよりよくしていこうと思うに違いないと思っています。山に登って気持ちがリフレッシュされるのはもちろんですが、その先のことまで見渡すようになると思っています。それは、自然のなかにごみを捨ててはならないということから始まって、自分が自然のなかで何ができるのか、周囲と協力するにはどうしたらよいかなど、考えるようになるはずです。さらには、地球全体で起きている環境問題にも行きつくと思います。

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ところで、日本のガイド制度について教えてください。

佐々木 公益社団法人日本山岳ガイド協会という全国組織があります。僕もここに所属し、現在理事を務めています。昔は、それぞれの土地に「山案内人」がいて、自分たちの山を案内していました。各地方で完結していたことが、全国に広がりつながりが持てるようになっています。情報交換や交流ができ、ガイドの資格は統一された内容のカリキュラムと試験をもって発行されているという保証があります。これは、とてもよいことだと思います。この利点をさらに活かしていくのが、僕たちの役目です。
現在は、自然ガイド、登山ガイド、山岳ガイド、国際山岳ガイドという4つのクラスに大別されています。自然ガイドは動植物や樹木、そのほか自然のあらゆることを解説することに長けています。登山ガイドは、資格所有者がいちばん多いです。クライミングロープを使わずとも登れる山を職域としています。山岳ガイドはクライミングロープを積極的に使いながら、岩稜も雪稜も岩壁や氷雪壁も登ります。国際山岳ガイドは、国際山岳ガイド連盟の基準をもってガイド資格が発行されています。国際山岳ガイド連盟に加盟している国同士で、それぞれの国の就業規則にそってガイドをすることができます。

登山者がガイドと山に行くことのメリットは?

佐々木 一般の登山者は、自分の仕事が山以外のところにあり、限られた貴重な時間で山に登っていますよね。限られたなかでよりよい体験をしたいとき、ガイドの力が活きてくると思います。ガイドは基本的に、日々山に接しています。山に登ったり、仲間とトレーニングしたり、山の勉強もしています。それらの経験や知識をもって、いちばんいい状態の山にご案内することができると思います。
たとえばバックカントリースキー。いまはだれもが入手できる情報がネット上にあふれています。けれどそれはあくまでも過去のものだったり、それぞれの人が体験した個の情報だったりすることが多いです。スキーガイドはそれ以上の情報を自分の中にもっていると思います。だから僕は、その日一番いいコンディションの斜面にご案内できる自負があります。その山の積雪や天候を観察し続け、滑り続けているからです。スキーガイドはそこで得た情報を使って、これからのことを予測し、いまなにがよいか答えを出すことができます。
クライミングガイドを例にとると、お客様と初めて登る機会であっても、その前にヒアリングをしてお客様の実力や志向性を把握し、ベストなルートを提供できるわけです。そう考えると、ガイドの仕事はコンシェルジュの役割もありますね。そしてなによりも、判断力ですね。適切な判断をして、安全を管理してくれます。
しかし、実はガイド登山には弱点もあると思っています。
僕は、自然のなかでのいちばんの体験は、生身の自分が自然と向き合うことだと思っています。しかしガイド登山では、ガイドが計画した山行にいき、現場での判断を預けるので、醍醐味の部分を手放しています。健全なのは、自分たちの考えで行動すること。自分の持てる知識、経験、能力を使って行動すること。そういったときにいちばんいい時間が過ごせると思っています。入り口としてガイド登山を使い経験を積んでもらうのはよいことだと思います。けれど、いつか自分の力で山に向かってほしいです。そしていずれ行き詰まったときや、もっとレベルアップしたい時がきたら、またガイド登山を活用してもらえると嬉しいですね。

北海道・雷電海岸にて、若手たちとアイスクライミング

若手の育成にはどのように取り組んでいますか?

佐々木 新潟県の妙高にある国際自然環境アウトドア専門学校で、将来ガイドを目指している人たちを、講師という立場で指導しています。まずはどれだけ山が好きかということが重要だと思います。ガイドになりたくて登山を始めるケースの人もいますが、僕は山がとことん好きな人がガイドになるべきだし、自分自身の山の楽しみ方を知っている人がいいガイドだと思います。ちょっと好きなぐらいじゃダメ、とことん好きでいてほしい。でなければ、ガイドになるのはやめちゃえぐらいに思っています。だから、まずは山を好きになってもらいたい、自分で山に行くようになってもらいたいです。
そのうえで、登山の基礎から教えます。僕自身が担当しているのは、もう少しテクニカルな部分になります。職業プロを育てるという意味では、クライミングの基本、スタンダードはここだというところを、しっかりたたき込みます。山の中では、彼らの経験だけでは感知できないリスクを伝えるのも、僕たち講師の役目ですね。リスクを直截的に伝えるのではなく、当人たちになるべくイメージしてもらってから、伝えるようにします。今後、少しでもリスクを見分けられるようになってもらうために。また、自分たちだけで山に入っていても限界を押し上げることは難しいです。ですから、僕たちがプッシュすることも多いです。

雷電海岸は海が臨める絶好のロケーション

佐々木 ガイドを目指している人たちや若手のガイドと山で一緒になることも多いです。我われ中間世代のガイドが、はつらつとした姿で仕事をして、自分の山にも登っているところを、次の世代に見せることが、なによりだと思っています。ガイドという仕事が輝いていて、憧れてもらえるように。僕自身も、先輩ガイドたちの背中を見て育ったので。
ガイドに向いているのは、何よりも真摯な人です。お客様の命を預かるわけですから、なにごとにも真摯に取り組める人でなければなりません。けれどそれだけではだめ。現場では、複数のタスクをかかえてスピード感をもって判断していかなければならない時もあります。そういったことがこなせる能力が要求されますね。
どんな職業も同じかもしれませんが、人間性や社会性も要求されます。学び続けなければなりません。
僕自身は、仲間と山に向かうことが、僕のガイディングにいい影響を与えていると思っています。仕事と遊びのバランス。仕事ではプッシュできないような領域も、山の仲間とであれば向かうことができます。そこでの経験が、自分の実力を押し上げ、幅広くしてくれていると思うし、それがガイディングにもつながっていくはずです。また、楽しみ方の幅も広がっていきます。

 
 
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2020年1月末、若手と終日かけてクライミングしたのち、夜はざっくばらんな時間を一緒に過ごす

日本のガイド社会のこれからの課題は?

佐々木 現在、日本山岳ガイド協会には2000人ぐらいのガイドが登録されています。けれど、年間を通じてガイド業だけで生活できているのは、200~300人程度だと見積もっています。ガイドが、安定した生活をできるようにしていきたいですね。それにはもっと多くの人に、ガイド登山の魅力を知ってもらう必要があります。広報活動にも力を入れていきたいです。

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佐々木 また、登山を取り巻く様々な問題が各地にあります。これはひとつの例ですが、北海道では登山道の荒廃化が目立っています。以前は、地元山岳会などが手入れをしていたところも、高齢化によっておぼつかなくなっています。行政からの助成金もありますが、人手が足りない。これまでは地元のひとたちの情熱で成り立っていたことが、行き詰っているのです。北海道のガイド協会では登山道整備の手伝いもしています。草刈りもします。登山道がなくなってしまっては、そもそも登山そのものができなくなります。登山の経験や知識があって、身体も動く僕たちガイドの出番ですね。
ほかにも遭難対策など、人材不足によりうまく機能していない仕組みがあります。そういった登山を取り巻くひとつひとつのことに、ガイドの立場から尽力していくことが必要です。メーカーや山小屋、メディアなど登山業界の様々な業種の方々と意見交換する場を持つことも大切ですね。

イワタニ・プリムスとはどんなつながりが?

佐々木 イワタニ・プリムスのスタッフの方とは、日本山岳ガイド協会の会合でお会いしました。お話をするなかで、「山のガイドがもっと活躍する場を作りたい」という思いを持っていることに共感しました。将来の日本の登山社会のためにも、今後の若手の育成について、協力し合えることがないか相談をしていければと思っています。

さて、次はパキスタンですね。

佐々木 3月下旬に出発です。仲間7人で行ってきます。カラコルムにあるバインターブラックとラトックという山をぐるっと一周する氷河を歩き、山々を滑ってきます。5000~6000m峰がたくさんあり、55~60度ぐらいの斜面にパウダースノーが降り積もるんです。途中、スキャムラという5500mの峠を越えると、その先がスノーレイクと呼ばれるところ。幾つもの氷河が集まっている場所です。
僕が二十歳の頃、ペツル(当時はシャルレ)のカタログでスノーレイクをたどるツアースキーの写真を見たんです。こんなすごい山々に囲まれて、ソリを引いてスキーで旅しているんだって印象的でした。こんなところ、今の自分たちでは行けないなって思ったのも覚えています。そのカタログは、今は手元にないけれど、数年前、フランスのスキーヤーの映像を見ていたら、スノーレイクが出てきたんです。すぐにわかりました。周辺の山々も滑っていて、「よし行くぞ」って気持ちになりました。
今回は、一緒に遠征したことがない人を誘おうって決めていて、スキーヤー3人、スノーボーダー2人、カメラが2人です。映像作家の関口雅樹さんだけが、これまでも何度も一緒に旅してきた仲間で、それ以外のメンバーと長いツアーに出るのは初めてです。楽しみですね。

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20代はビッグマウンテンスキーヤーとして世界各地を転戦。30代になって軸足を山岳ガイドに移し、国際山岳ガイドの資格を取得した。40代のいまは、なにを見据えているのか?と問うたら、意外な答えが返ってきた。「ガイド業、自分の山、家族との時間を充実させる10年間にしたいと思っています。まだまだたくさんの経験を積みたいし、登りたい山も滑りたい斜面もたくさんありますから」と。さらには、「50代になってそれまでの経験を社会に還元できたらいいですね」という。いまでもすでに、登山社会全体を見渡し行動し、リードしている。それでも彼にとったら、まだまだこれからだったのか。40代のさらなる経験が、その先で熟され、多くの人々に手渡されていくことを想像すると、頼もしい。

(取材日:2020年1月~2月)

プロフィール

佐々木大輔(ささき・だいすけ)

1977年北海道札幌生まれ
1995年高校卒業後、ノマドにて山岳ガイド見習い、冬は三浦雄一郎スノードルフィンズスキーインストラクターの職に就く
1996年ネパール・マナスル(8163m)遠征。7400m地点よりスキー滑降
1997年ジャパンエクストリームスキー大会(JESC)優勝  同世界大会8位
1998年JESCにて再び優勝。同世界大会出場、ヨセミテ・エルキャピタン・ノーズ登攀
1999年ノースアメリカエクストリームスキー大会7位、ヨセミテ・エルキャピタン・シールド登攀
2000年マッキンリー山頂よりスキー滑降
2001年千島列島パラムシル島スキー遠征
2002年レッドブルスノースリルオブアラスカ3位(ビックマウンテンスキー世界大会)
2003年グリーンランド・シーカヤック&スキー遠征
2004年中国ムスターグアタ(7546m))6900mより滑降
2005年ビックマウンテンスキーワールドツアーフランス大会 2位
2006年フランス・クーシュベル・ライドウィーク優勝、利尻岳西壁初滑降
2007年利尻岳南陵〜東壁初滑降、パタゴニア・ダーウィン山脈シーカヤック&スキー遠征2286m峰初登頂・初滑降
2009年主演ドキュメンタリーフィルム "END OF THE LINE"発表
2009年11月〜2010年3月 第51次南極観測隊フィールドアシスタントとして南極セー
2013年利尻岳東北稜〜オチウシナイ沢厳冬期滑降、NHK "厳冬・利尻 究極の滑降”放映、
5月グリーンランド・シーカヤック&スキー遠征
2014年利尻岳西壁中央ルンゼ〜ローソク岩〜アフトロマナイ沢滑降
2017年デナリカシンリッジ登攀~南西壁滑降、NHKにて放映

国際山岳ガイド、(公社)日本山岳ガイド協会連盟理事
http://guide-bankei.com/

写真提供:佐々木大輔氏
インタビュー・執筆:柏澄子
アイスクライミング撮影:二木亜矢子
インタビュー撮影:中垣美沙
協力:公益社団法人日本山岳ガイド協会


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